■地元を巡る〜岡崎史跡探訪〜
<地元を巡る〜岡崎史跡探訪〜【三河帯芯】>
三河帯芯直販店は、愛知県岡崎市に本社がある「帯芯」の販売サイトです。帯芯は帯の芯として中に入れる布のことです。
今この三河岡崎の地で弊社が帯芯を生産して事業を行えるのは、日本の着物文化と、この地域の繊維産業の発展のおかげ。
こうした思いから、ここ数年、地元の繊維産業の歴史や家康公について、はたまた名所や文化についてご紹介してきましたが、今年は更に歴史を遡り、
古代から順を追って、中世鎌倉のころまでの地元岡崎の史跡をご紹介しようと思います。
<真宮遺跡(縄文晩期〜鎌倉)【国指定史跡】>
真宮遺跡は、岡崎市真宮町・六名1丁目にある縄文時代から中世までの複合遺跡です。
複合遺跡とは複数の時代にまたがる遺跡の事で、真宮遺跡では、縄文時代の住居跡や墓、弥生時代の墓、古墳時代の竪穴住居跡、奈良・平安時代の建物跡などが見つかっています。
特に縄文時代の住居跡からは、土器だけではなく、石製の生活用具や儀式用と思われる遺物が出土しており、この地方の縄文時代の人々の暮らしを考える上で、貴重な資料となっています。
縄文の昔から、弥生、古墳、飛鳥、奈良、平安、鎌倉・・・時代を経てずっとこの地に「岡崎人」が暮らし続けていたんだと思うとロマンがありますね。
<太夫塚古墳(古墳中期(5世紀))【県指定史跡】>
太夫塚古墳は、岡崎市若松町にある古墳時代中期の円墳です。
丘の先端部に築かれた市内南部に残る数少ない古墳のひとつで、須恵器の高坏や円筒埴輪、人物埴輪などが出土しています。
特に人物埴輪は女性の下半身の部分が残っており、その脚先にはヘラのような道具で線を描き靴が表現されているそうです。
古代人の制作物に対するこだわりが垣間見られて、何だか親しみが沸いてきます。
<甲山第1号墳(古墳中期(5世紀))【市指定史跡】>
甲山第1号墳は岡崎市六供町、乙川と伊賀川に挟まれた甲山の山頂にある古墳時代中期の古墳です。
これまで直径60mの大円墳と考えられていましたが、近年は前方後円墳の可能性も指摘されています。
戦時中、防空壕の掘削の時に大量の木炭が確認されたことから、内部施設は木炭によって棺が保護された木炭槨という珍しい構造だと推定されています。
戦争という大きな歴史のうねりによって、偶然古代の歴史が紐解かれるなんて面白いですね。
<石田第1号墳・石田第2号墳(古墳後期(6世紀))【市指定史跡】>
石田第1号墳は隣接する第2号墳とともに岡崎市細川町の丘の南縁にある古墳時代後期の古墳です。
第1号墳は直径約20m、高さ約3.5mの円墳で、複室の横穴式石室があり、石室内からは須恵器(すえき)と耳環が見つかっています。
第2号墳は現状で直径約23m、高さ2.6mの円墳で、石室内からは須恵器や土師器(はじき)、玉類、灰釉陶器などがが見つかっています。
土師器というのは、たき火で焼いた、やわらかくて赤っぽい色をした土器で弥生時代からあります。
須恵器というのは朝鮮から製法が伝わった高温の窯で焼いた黒くて硬い土器で、古墳時代に広まりました。
<村上遺跡・村上古墳(古墳後期(6世紀))【市指定史跡】>
村上遺跡は岡崎市丸山町にある縄文時代早期から晩期にかけての集落跡です。
昭和23年に行われたこの村上遺跡の発掘は、岡崎市内で行われた初めての本格的な発掘調査で、岡崎の発掘史上重要な史跡とされています。
村上古墳はこの村上遺跡の上の丘にある高さ約2mの円墳です。
内部構造は複室の横穴式石室ですが、残念ながら古くから開口してしまっていて、中に遺物などは確認されていません。
自然に崩れてしまったのか、動物に荒らされたのか、はたまた墓泥棒か。
埋葬物が残っていないの残念ですが、そんなことに思いを馳せるのも面白いですね。
<岩津第1号古墳(古墳後期(6世紀)後半)【県指定史跡】>
岩津第1号古墳は岡崎市岩津町にある古墳時代後期の古墳で、6基あった岩津古墳群のうちのひとつです。
調査時にはすでに墳丘は大きく崩れていましたが、測量調査より直径18m程の円墳と推定されました。
しかも、石室内部からは3体分の人骨、金環・玉類の装身具を始めとする様々な遺物が出土しています。
その豪華さから、この地域で中心的地位を占めた人物の墓だと考えられています。
古代の権力者には、この岡崎の地はどのように見えていたのでしょうね。
<神明宮第1号古墳(古墳後期(6世紀)後半)【県指定史跡】>
神明宮第1号古墳は、岡崎市丸山町にある古墳時代後期の円墳です。
西三河最大の横穴式石室をもつ古墳として知られており、愛知県指定史跡に指定されています。
横穴式の石室は全長11.6m、最大幅2.4m、最大高2.9mという広々としたもので、奥壁の巨岩には、今でもベンガラの朱色が残っています。
武器や馬具といった鉄製品、金環などの装身具などが出土しており、6世紀後半に古墳が築かれた後に、7世紀初めまで追葬が行われたことを推測させます。
今のお墓の様に、後から亡くなった人が同じお墓に入るということがあったんですね。
<北野廃寺跡(飛鳥後期)【国指定史跡】>
北野廃寺跡は、岡崎市北野町にある飛鳥後期に建てられた西三河地区における最古の寺院跡です。
調査によって発見された出土品の中には、正倉院宝物にしか類例が見られない装飾品が発見されるなど、全国的に見ても貴重なものも含まれます。
また、堂塔に使用された瓦の文様は例の少ない高句麗様式のもので、それらが三河地方一円に分布していることから、三河地方における中枢的な寺院であったことがわかります。
日本が仏教を国教として取り入れた時代、この岡崎の地にもその足跡が残されているんですね。