■三河帯芯・三河の「岡崎話」

<三河帯芯・三河の「岡崎話」【三河帯芯】>

「帯芯」とは着物の帯に入れる芯地のことをいいます。帯地にはさまざまな種類がありますのでそれに適した帯芯を選びます。
三河帯芯は、愛知県岡崎市の中心地に本社をおく帯芯の会社です。お城もほど近い、かつての城下町で帯芯の販売を行っています。
全国的にも、家康が注目されているタイミングです。ここでは徳川家康の生まれた街「岡崎」のことをお伝えしたいと思います!





<岡崎みやげ(味噌)>

岡崎と言えば八丁味噌!400年以上も伝統を守り作り続けているお味噌です。
江戸時代の矢作川左岸沿い、岡崎八町村で醸造された、香り豊でコクがある独特の風味をもつ豆味噌です。大豆に塩と水だけを加えて糖化させる豆味噌は三河・尾張地方特有のものです。
八町村で味噌作りが発達した理由として、矢作川の船運により原料である大豆・塩の搬入や製品の積出しに便利な土地であったことや、豊富で良質な水と、この土地の温湿度が醸造に適していたことがあげられます。





<岡崎みやげ(あわ雪)>

現在の岡崎の名物として知られている「あわ雪」は、泡立てた卵白と砂糖・寒天を淡雪のようなくちどけに仕上げた菓子です。
その歴史は江戸時代にさかのぼります。岡崎宿の東入口辺りに、あわ雪茶屋というものがありました。そこで提供されていた餡かけ豆腐が東海道旅籠の名物でした。
江戸時代の料理本によると、あんかけの豆腐料理には2種類ありました。ひとつは白豆腐に葛たまりをかけて浅草海苔とわさびを添えたもの。もうひとつは醤油ベースの鰹だし汁に山芋のおろしをいれた餡を豆腐にかけたものでした。これらが現在の銘菓のルーツとなっています。





<矢作川と塩>

その昔、岡崎市の矢作川は塩を運ぶための重要なルートでした。矢作川で運ばれた三河湾の塩は、遠くは信州方面まで中馬で運ばれていました。
中馬というのは江戸の中頃に信州でつくられた馬の背で荷物を運ぶ人たちの組合のことをいいます。
岡崎城近くの矢作川には船着き場や塩の専売を行う塩座がありました。味噌の材料である塩や大豆を調達しやすい土地であったことも、この地ならではの豆味噌作りの発展に大きく関わっていたと言えます。





<竹千代橋>

徳川家康が生まれた場所、現在の岡崎公園の板屋曲輪の南方にある伊賀川にかかる橋を竹千代橋といいます。竹千代とは家康の幼名のことです。
江戸時代、貴族や武家の子は幼名をもっていました。元服のときに改めて諱(いみな/実名、本名)を与えられるので、幼名は成人するまでの間に一時的に使われるものでした。
家康の祖父松平清康も幼名を竹千代としていたように、松平家では家康以前から竹千代という幼名が使われており、江戸幕府が開かれてからは主に将軍の嫡男が竹千代の幼名を使っていたそうです。





<岡崎城と龍伝説>

その昔から岡崎には、根石山・甲山・諏訪山・龍頭山・霧降山の五山がありました。岡崎城はそのうちの霧降山に位置します。城が築かれる前は木が生い茂り昼間でも暗く、山全体が霧で覆われることも多かったので、そう呼ばれていました。
康生元年(1455年)に西郷頼嗣がはじめてこの地に岡崎城を築城しました。そのときに龍神が現れたという伝説があります。
岡崎城の横にある龍城神社には「龍の井」と呼ばれるその龍神が現れたとされる井戸があり、昇龍伝説が今も語り継がれています。
家康誕生の際にもこの地から金色の龍が天に昇ったとの言い伝えがあります。





<東照公遺訓碑>

東照公とは徳川家康公のことをいいます。岡崎城本丸跡にある碑はよく知られた家康の遺言と伝えられている言葉を刻んだものです。
「人の一生は重き荷を負うて遠き路を行くが如し、急ぐべからず。 不自由を常とおもへば不足なし。 心に望みおこらば困窮したる時を思い出すべし。 (以下略)」
(人の一生というものは、重い荷を背負って遠い道を行くようなものだ。 急いではいけない。 不自由が当たり前と考えれば、不満は生じない。心に欲が起きたときには、苦しかった時を思い出すことだ。)
礎石には亀、礎頭には岡崎城、別名竜城を象徴する龍のモチーフが刻まれています。こちらは石の町でもある岡崎石工の手によるものです。





<岡崎公園と芭蕉の句>

日本さくら名所100選にも選出された岡崎公園は、春には岡崎城を中心とする公園とその周辺にある約800本の桜が咲き誇ります。
その岡崎公園には芭蕉の句碑があり、「木のもとに汁も鱠もさくら哉」という句が刻まれています。
これは元禄3年(1690年)3月2日に芭蕉が岡崎市伊賀の風麦亭において行った八吟四十句の発句であり、明治13年に建立された岡崎の書家内田不賢の書によるものです。
その後、明治13年から14年にかけて始まった桜の植栽は、その後も多くの人の力で整備が行われ現在に至ります。





<三河花火>

岡崎では、文化文政(1804年〜1829年)の頃から、鉾船を浮かべた情緒ある花火まつり「管生まつり」が広く知られています。
今日では打ち上げ、手筒、仕掛けなど三河花火の粋を集めた全国でも屈指の花火大会といわれています。
三河花火は、天文12年(1543年)ポルトガル人によって鉄砲が日本にもたらされ、戦国武将たちが競ってその製造と砲術の研究に努めたことにその起源があります。
この地を支配した家康も鉄砲隊の整備に力を入れ、三河鉄砲隊が配置されました。その後、戦乱の世が終わり、その技術が民間に伝わり三河花火の基礎となりました。





<東海道と伝馬の制>

岡崎の大動脈である東海道。この道にも家康が大きく関わっています。
関が原の戦いの後、1601年(慶長6年)、徳川家康はまず東海道に伝馬の制を定めました。公用で旅行するものには朱印状を与えて伝馬・人足の徴発を許可し、各駅に印鑑を授けて輸送の仕事と責任を明らかにしました。
もともと東海道は、鎌倉時代から京都と鎌倉を結ぶ大切な道路で、宿駅も整っていました。江戸幕府が新しく設けた宿場は、江戸から箱根までの六宿場だけでした。各宿場には三十六頭の馬を常備し、そのかわりに馬一頭につき五十坪の地租を免除しました。





<東海道藤川宿>

岡崎の名高い宿場町の1つ東海道藤川宿は、慶長6年(1601年)に東海道五十三次品川から数えて37番目の宿場町として栄えた場所です。
約1キロの間にクロマツ90本が並ぶ「藤川の松並木」や江戸時代の門が残る脇本陣。歌にも読まれたむらさき麦などに往時にの宿場町の面影を感じます。
また、藤川宿本陣跡にたてられた藤川宿資料館には、当時の街並みが再現された模型や高札、朱印状などの資料が展示されています。





<奥殿陣屋(旧奥殿藩陣屋跡)>

岡崎市の北部に位置する奥殿陣屋は、奥殿松平家がこの地を統治したことを発端に、陣屋が移され奥殿藩が誕生したことがその起源です。
花ぞの山(村積山)という、その昔持統天皇が命名されたと伝えられる山のふもとにあります。徳川氏の発祥である松平郷にもほど近く、1万6千石の親藩としての奥殿藩の歴史と文化を感じられる地でもあります。
場内には、書院や資料展示室、花火資料室などの見どころがあります。