■徳川家康生誕地の帯芯ショップがお送りする歴史情報

<徳川家康の生誕地「岡崎」【三河帯芯】>

三河帯芯は、江戸幕府の初代将軍の徳川家康の生誕地岡崎に本社をおく「帯芯」の販売サイトです。
帯芯とは、着物を着る方にはなじみ深い帯の芯として中に入れる布のことをいいます。
三河帯芯の所在地愛知県岡崎市中町は、かつての城下町があった市の中央地域に位置することから、ここでは、城下町・宿場町として栄えた岡崎市の歴史にスポットライトをあててご紹介したいと思います!





<岡崎城>

岡崎城は三河国岡崎藩、現在の愛知県岡崎市康生町にあり、徳川家康の生地として知られています。
その歴史は康正元年(1455年)頃に西郷頼嗣(稠頼)により築城されたことに始まります。
その後、徳川家康の祖父である松平清康がここを本拠として、城を整備しました。
明治の時代に城郭のほとんどが取り壊されてしまいましたが、昭和34年に鉄筋コンクリート造で以前の天守が再建されました。
現在岡崎城址は、岡崎公園として整備され多くの人が集う場所となっています。





<岡崎五万石>

民謡「岡崎五万石」の歌詞の中には「五万石でも岡崎様はお城下まで舟が着く〜」と謡われています。
愛知県岡崎市の西を流れる矢作川と岡崎城を船で行き来していた船頭達が舟歌として歌いはじめたのが「岡崎五万石」です。
岡崎城は家康の生誕地であることからも江戸時代の頃は特別な場所であり、お城から歩いてすぐの場所に船着き場があることは、当時城下町として賑わいをみせていたこの地に住む人々の誇りでもありました。





<東照公産湯の井戸>

愛知県岡崎市の岡崎公園の西北隅、二の丸能楽堂近くにある井戸は、岡崎城内で天文11年12月26日(西暦1542年)に徳川家康(竹千代)誕生の折りに産湯の水を汲んだ井戸といわれています。
2015年に井戸の水を汲み上げ、直接水に触れられるようになりました。
また、岡崎城が築かれた小高い丘には守り神として龍が住んでいるとの伝説があり、岡崎城の別名は龍城ともいわれます。





<龍城神社>

岡崎城のすぐ隣に鎮座するのが龍城神社です。
家康生誕の朝に城の上に雲を呼び風を招く金の龍が現れて昇天したという伝説があります。
御祭神は、徳川家康と本多忠勝です。東照宮と忠勝公を祀っていた映世神社を合わせて、明治9年(1876年)に龍城神社になりました。
岡崎の春の風物詩である三河武士団や姫列が市内を練り歩く「家康行列」は、本多忠勝を祀る映世神社が忠勝公の命日に藩主達が鎧兜を身につけ戦陣を組んで行列をしていた「映世明神祭礼」が起源です。





<本多平八郎忠勝公像>

本多忠勝は、愛知県岡崎市西蔵前の出身の戦国武将です。
生涯をかけて徳川家康に奉公し徳川幕府の天下の基礎を築きました。
「徳川四天王」「徳川三傑」「徳川十六神将」のひとりであり、豊臣秀吉に「家康に過ぎたるもの」「天下無双の勇士」と称賛された武将です。
岡崎公園内にある本多平八郎忠勝の像は鹿角兜と甲冑で身を固めて、名槍といわれた蜻蛉切を携えています。





<東照公えな塚>

岡崎公園内に、徳川家康の「えな」を祭る東照公えな塚があります。
家康(幼名竹千代)は天文11年(1542年)12月26日に現在の愛知県岡崎市にある岡崎城で生まれました。
えなとはへその緒のことをいい、かつての日本ではえなを埋めて子供の成長を願ったといわれ、生まれた喜びと祈りの込められたスポットとされています。
もともとは岡崎城本丸の南にあったものを移して今の場所におかれています。





<岡崎城の石垣>

お城といえば天守閣が目をひきますが、その石垣も魅力のひとつといえます。
岡崎城の石垣には岡崎産の花崗岩が使用され、石材の加工の仕方や積み方をみるとさまざまな石垣の様子を伺うことができます。
城跡の石垣は、中世から近世にかけての複雑な縄張りを構成する遺構です。
石垣めぐりをすることで当時の様子に思いをはせるのはいかがでしょうか。





<岡崎公園の藤「五万石ふじ」>

岡崎公園南側の乙川堤防沿いには1,300平方メートルの藤棚があります。
この藤は「五万石ふじ」とよばれ、花房が長く見事な紫色の花が広がり、その甘い香りに毎年5月には数多くの人が訪れます。
推定樹齢120年以上の古株の中には幹周り2.4メートル、枝は11メートル、花穂が長く1メートルほどのものもあります。
これらの藤は、かつて城の入口付近にあったものを移植したものです。
藤は岡崎市の花でもあり、愛知県の天然記念物にも指定されています。





<家康公のからくり時計>

愛知県岡崎市の岡崎公園には、からくり時計塔があります。
その高さは約6メートル。塔の側面には葵の紋や龍が描かれています。
定刻になると家康公が能を舞い、「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし。急ぐべからず。」で始まる遺訓を語り、そのさいごにはからくり人形らしいほほえましい仕掛けがあります。
なお岡崎公園は日本さくら名所100選のひとつであり、岡崎城とその周辺の800本の桜が咲き誇る季節は見事な春の風景です。





<東海道岡崎宿 その1>

岡崎宿は江戸から数えて東海道十三次の39番目の宿場です。
家康の祖父である松平清康が岡崎城を居城として以降、城下町として発展しました。
宿場町としての発展の原型をつくったのは、天正18年(1590)岡崎に入部した武将田中吉政です。
吉政は城下の町割には7つの町を堀で囲む田中掘を築造しました。また、西側の低湿地の埋め立てを行いました。
さらに特筆すべきは、それ以前は岡崎の郊外を通っていた東海道を城下町の中心を通るように引き入れる設計を行ったことがあげられます。
以降、さまざまな整備拡張を行い現在につながる都市設計を進めました。





<東海道岡崎宿 その2>

田中吉政が進めた城下町整備を引き継いだのは、慶長6年(1601)に藩主となった本多家です。
この時期に矢作川にはじめて橋がかけられ、東海道を城下へとひきいれたのです。
変更が重ねられた東海道は、くねくねと曲がりくねり「東海道岡崎城下二十七曲り」とよばれる街道となりました。
曲がりくねった街道は、外敵に対して城の防衛のためにつくられたものでしたが、政権の安定が続くとその意味はなくなり、城下町・宿場町の形で栄えていったのでした。
天保14年(1843)の記録によると岡崎宿は人口・家族では東海道53宿のうち第7位、旅籠屋数では第3位であり東海街道有数の大きな宿場町であったことがうかがえます。